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人を誹謗中傷できる心はどこで育めるの?

2ちゃんねる、ヤフーコメント、ガールズちゃんねる・・・

挙げればきりのない誹謗中傷が日常茶飯事なサイトの数々

もちろん掲示板やコメントサイトだけでなく、YouTubeのコメント欄やTwitterInstagramなどでも日々誹謗中傷が行われています。

最近の小中高の教育ではネットでのトラブルに対しても触れることがあります

が、そもそも匿名、非匿名関係なく人の悪口(悪口といえば優しく感じるが、普通の人間ならば口に出すのもはばかられる言葉)を言うことができる人間はどういった生活を送ってきたのだろう?

一時は匿名で相手の顔も見ることがないので気軽に誹謗中傷できるという説明が妙に腑に落ちるところがあり、納得していました。しかし、よく考えたときに相手の顔が見えなかったとしても人間と対する以上暴言を吐くことはできるのかという疑問が浮かびました。画面の向こうには人がいて人が見る発言なのでスマホ越しだから、パソコン越しだから機械に向かって言っているという感覚になる者は人の心を有するものではありません。そいつには人を語る資格などなく、もはや人ではない。

 

2chやヤフーコメントの住人たちを心から尊敬する

たとえ趣味が「2chに書き込むこと」でも私は馬鹿にしない

なぜなら自分の趣味を馬鹿にされることが怖いから

 

ここの住人に共通することは自分の発言の記憶力が極めて乏しいことだ。

なぜ1ヶ月前散々けなしていた人物を褒めることができるのか到底理解できそうもない

人の意見は変わってもおかしくない、私も違う視点から物事を見て違った考えを持つことがある。しかしそれでも前の思考や発言は記憶し、それに訂正をかける。

しかしこの住人たちはどうか、前の発言は一切なかったことにし以前からそうであったかのように振る舞うことができる。厚かましいのか?いやそうではない人間として大事な部分が欠落しているのだ。

人の悪口を言ってはいけないことがわかる小学生よりもモラルがないのに知識は普通に暮らす大人たちよりも持っているたちの悪い幼稚園児だ。

 

 

人見知りには2パターンあると個人的に思う

僕は人見知りです。

知らない人やそこまで親しくない人と話す時、「自分がどんな話をすればこの人は喜ぶのだろうか、この人は自分のことをどう思っているのか、そもそもこの人に嫌われているのではないのだろうか。」こんなことを話し始める前に考えてしまうのです。

結局、友達になる人なんかは最初から喜んでくれる話をする必要はないし、自分の評価なんていうのは考える必要がないのです。

必要ないにもかかわらずなぜ話すことが億劫になってしまうのか、必要以上に相手のことを考えてしまうのか、自分が立てた仮説は、「人に好かれたい(嫌われてしまうのが怖い)という気持ちが必要以上に出てきてしまう」です。

大抵の人は、人見知りでもそうでなくても嫌われるのが怖いし、できれば好かれて生きていきたいと思う人がたくさんだと思います。この社会、特に情報社会の中で生きていく上で嫌われ者は圧倒的に不利ではないかと思います。

大抵の人がそう思いつつも円滑にコミュニケーションできる人がいるのはなぜなのでしょうか?それは仲良くなれば印象なんか簡単に変わることを知っていて、印象を変えることに何度も成功してきたからではないかと思います。人は第一印象が大事とは言いつつも、第一印象が悪かろうがコミュニケーションのとり方次第で変えることはできると思います。ただし僕みたいな陰気な人見知りは第一印象を根に持ちます。

人見知りの方は根に持つ人が多いのではないでしょうか?自分がそうだから、というわけだけではなくパッと忘れることのできる人は第一印象の変更も容易にできるのではと思います。逆に根に持つタイプの人は第一印象が尾を引いてしまい、印象変更もまごついてしまうのではないかと思われます。

相手の気持ちを計りすぎて自分の言葉を出せない人見知りタイプとは違う人見知りのタイプがいます。

それはコミュニケーションは最低限で、友達も最低限の人数で良いと思っているタイプです。

さっき大抵の人が嫌われるのが怖いと書きましたが、このタイプの人はそんなことを気にしません。自分を慕う人がいれば(いなくても)それでいいと思っているからです。

もちろん人見知り以外にも嫌われるのが怖くないタイプもいますが。

しかしこの社会では残念ながら、最低限のコミュニケーションで大丈夫という人に優しくデザインされておらず、どこかでそれはダメだと気づくのです。しかし、幼少期からそんな考えで過ごしていたので今更円滑なコミュニケーションが取れないのです。

そうなれば脱落していく、もしくはそれを覆すことのできる技術や力を持った人ならば道を切り開いていけるでしょう。

直接のコミュニケーションをとらないで良い時代はもう来ているのでしょうか?人が人と触れ合うことは少なくなっていくのでしょうか?いずれにせよネットを介したコミュニケーションでも人見知りを発揮してしまう僕は淘汰されるでしょう。

 

 

死ぬタイミングはいつがいいのか。

もし自分で選べるとすればあなたはどうしますか?

僕は今日かもしれないし明日かもしれませんもしかしたら30年後かもしれません。

こういった日曜日何もする気がおきない時、時々死について考えます。

「自殺願望があるのか」と言われると答えは「ありません」です。

よく自殺に関するニュースとかで「生きていればきっと楽しいことがあります」だとか「生きたくても生きられない人がかわいそう」って言葉が出されると思うのですが、自殺したい人っていうのは自分のこと(今自分が体験している絶望感)しか考えられないんですよね。だから未来に希望なんて抱かないし抱けない、ましてや生きたくても生きられない人のことなんて考えられない。

自殺はいけないことなのかもしれないが、自殺を止めるのなんて、自殺ホットラインだとかそんなこと全く考えたことない人たちが止めようとしても止められないと思います。自殺という大変エネルギーを使う行為をする直前にまで至ってる人を止めるなんて一生が保証されるくらいの希望を見せつけないといけないのじゃないかな。

 

もし自分が認知症になって周りに迷惑ばかりかける存在になったことを想像することはありますか?

おそらく今認知症の介護をしてる方でもはっきりとそういう想像はできない、というかしたくないのではないかと思います。

認知症になり苦しんでいる方もまさか自分が認知症になるなんて思わなかったはずですよね、認知症になった時の正解はどこなのでしょうか?

死ぬまで自宅で介護を続ける、施設に預けて月に何回か顔を合わせる、選択肢はいくつもあり正解も一つではないでしょう。認知症が直接死に至る病気でないことも少し複雑な状況を生み出しているのではないでしょうか?自分がもし認知症になったら殺してくれって簡単に言えますが実際はそんなに簡単ではないですよね。人間五十年の時代の方が幸せだったのでしょうかね?

 

延命は正義なのでしょうか?

家族の都合でおそらく覚醒することのない意識の状態の人が人工呼吸器をつけながら生き続けるのは望んだことなのでしょうか?

果たして本当に生きたいと思い続けて目覚めない夢を見ているのでしょうか?本当はもう生きたくないのでしょうか?意識がなくなった時点で本人の選択肢は0になりますよね。安楽死だって本人の意思がなければ使えない、でももう本音は一生聞けません。

今後免許証や保険証の裏に「安楽死を希望しますか」の問いは追加されるのでしょうか?もし追加されれば迷うことなく「はい」にします。